昔三人の泥棒が、長者の家からたんまりお金を盗み、やっとのことで山頂まで逃げてきた。
これから三人で山分けしようとしている時、一人の泥棒が欲を起した。
「何とか盗金全部を我が物にしたいものだ」
と考え、
「オイお前ら、これを分ける前に腹ごしらえをしてかかろうじゃないか。俺は今から町へ行き、饅頭を買ってきてやるから待っていろよ」
と出かけていった。
空腹にあえいだ二人の泥棒は相手の心を知るよしもないから、異論のあろうはずはない。ところが、饅頭を山ほど買った泥棒は、たらふく食べた残りに毒薬を注入し、毒饅頭を作った。毒饅頭で二人の友を殺し、自分の財欲を満たそうとしたわけだ。
財欲がこんな鬼畜のようなことを思わせる。
ところが一方、山の泥棒たちも、あまり饅頭が遅いので欲を起した。
「何とかアイツを片づけて、お前とおれでこの金を二分しようじゃないか」
怖ろしい相談が決定していた。
そんなこととは露さら知らない饅頭の泥棒は
「さあ、食べてくれ。俺はあまり腹が減ったので、途中で食べてきたよ」
と言いながら、崖の上で気持ちよさそうに放尿を始めた。
二人の泥棒、好機ござんなれと、相談の通り足音を忍ばせて近づき、谷底へ突き落として殺した。
「これでまずまず安心、この饅頭を食べてからにしよう」
と、毒饅頭を食べた二人は枕を並べてあの世ゆきだ。
山頂にはお金だけが残されたという話がある。
財欲の奴隷になっている人間の末路をよく表している話ではありませんか
。
長く生きたところで五十年乃至百年の無常の人生にありながら、限りない財欲に引きずられ、底の知れない罪を作ってゆく。
黄金の雨が降っても満足できない底無しの財欲は、青鬼そのまま、無慈悲に悪を重ねてゆくのです。
貪欲は食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五つをいい、有ればあるで欲しい、無ければないで欲しい。そしていつも満足できない奴で、あたかも水が物を潤すように、しかも深さが知れないから、青色で教えられています。
食べたい、飲みたいという欲求は、満たされざる限界がくれば、たちまち「同僚、相喰む」餓鬼道が現出します。
敗戦直前のフィリピン戦線においては、
「オイ食われるなよ」
が兵隊に出て行く時に、戦友が見送る言葉であったといいます。
いよいよ餓死寸前に追い込まれたかつての皇軍は、鬼畜と変わったのでした。
初めは病死体や戦死体の大腿部の肉をハギ取る程度だったが、次第に生きている戦友、特に若くて脂肪太りの者が狙われ、ついには人間の丸焼を食らうということになったともいわれます。
こう聞けば、眉をひそめるばかりですが、彼らの残虐性に驚く前に、同じ立場に立たせられた時の自己を反省してみなければならないのではないでしょうか。
かかる時、果たして彼らの行為を責め得る確信があるでしょうか。
「さるべき業縁があれば、如何なるふるまいもすべし」
といわれるように、そのような事象から、我々の姿を見せつけられた感じがします。
仏教で教える罪を、一番重いもの順序よくあげると、以下のようになります。
1、謗法罪
2、五逆罪
3、十悪
まずは「十悪」。文字通り、十の悪い行いです。
列記すると以下のようになります。
1、貪欲
2、瞋恚
3、愚痴(ここまでが意業、心の悪)
4、綺語
5、両舌
6、悪口
7、妄語(この4つが口業、口の悪)
8、殺生
9、偸盗
10、邪淫(上記3つが身業、体の悪)
1、貪欲から説明いたします。
底の知れない欲で造る罪をいいます。金が欲しい、誉められたい、もっともっとと限りなく欲しいものを求める心で、親子・兄弟・恩師にでも、恐ろしいことを思う。
具体的にどのようなことか。
具体例を示して、次回から。
【仏教用語】<善と悪>
仏教で説かれる三業について、前回、書きました。
「善いことをすれば善い結果が、悪い行いをすれば悪い報いが、自分の行為が自分の運命を生み出す」
と教える因果の道理の結論は「廃悪修善」です。
悪因悪果、自因自果と知れば、私たちは悪い報いは欲しくありませんから、悪を慎むようになります。また、善因善果、自因自果と分かれば、幸せになりたい人ばかりですから、善行に励むようになります。
因果の道理は仏教の根幹、その結論である廃悪修善が仏教といえるでしょう。
前回も書いたとおり、因果の因は私たちの行為ですから、これが善なのか、悪なのかが、非常に大事な問題です。
その私たちの運命を生み出す原因、私たちの行為の中でも最も仏教が重視するのが、私の心であることも学びました。
日々の行為の中で、口や身の行いと心とでは、心のほうが格段に量が違うでしょう。
「一人一日のうちに八億四千の憶いあり」
と有名な中国の善導大師はいわれています。口や身の表面に出てくる行為は氷山の一角で、日々つくる私の行為のタネは、心で思っていることがほとんどだと分かります。
つまり、幸せになるか、不幸になるかは心次第ということ。ではその心はどんな状態なのでしょう。それを知るには、勧められている善を真摯に実行し、してはならないと教えられる悪を廃していかねばなりません。
そこで、仏教ではたくさんの善と、廃すべき悪とを詳しく教えられるのです。
まず、やめるべき悪について詳しく見ていきましょう。
【仏教用語】<三業>②
仏教は、私たちの行為を「心」「口」「身」の三方面から教えます。これを「三業」といいます。「口」「身」は行為と聞いてピンとくるでしょうが、「心」はどうでしょうか。
刑事事件などでもすでに殺してしまった(身)、あるいは脅した(口)ものを罪に問うのです。殺意(心)の有無を問われることがあっても、それは犯した段階でのこと。殺そうとしなければ、どれだけ思っていても問題はありません。
しかし、仏教はここが、一般常識とは違うのです。
仏教では、このようにいわれます。
「殺(や)るよりも 劣らぬものは 思う罪」
手にかけて殺す罪を1とするならば、〝あいつ殺してやりたい〟と思う罪は2の重さがある。もちろん手にかけて殺せば、恐ろしいことなのですが、思うこと自体がすでに、恐ろしい罪であり、その報いは必ず自身が受けねばならないことなのです。
なぜそこまで心を重視されるのかといえば、口や身を司っているのが心だから。火の粉にどれだけ水をかけても火事は鎮火しないように、火の元である心を制御せぬかぎり、私たちの行為は統御できません。
三業は、そのような関係にあり、心を最も重視せねばならぬことを、よく知っていただきたいと思います。
【仏教用語】<三業>①
仏教では、私たちが幸せになれるか否かを決めるのは、各人の行いによるのだ、と「因果の道理」を教えられています。
原因と結果の道理、ということで、原因とここでいわれるのは私たちの行為のこと、結果とは各自が受ける運命ということです。率直にいえば、私が受ける結果、運命のすべては、皆、過去の私の行為の結果に他ならない、ということです。
よく悪い報いを受けたような人には「自業自得だ」と言うことがありますが、まさにそのことをいわれています。
善いのも悪いのも、すべては自分の行い、といっても、そもそもその行為とは何なのか。
それを仏教では「三業」と教えられるのです。
これは「三つの行い(業)」ということで、「身業」「口業」「意業」の三つをいいます。「身業」とは、体の行い。寝たり起きたり、食べたり飲んだり、体の行い全般のこと。「口業」は、口であれこれ言うこと。ほめたり、叱ったり、他愛もないおしゃべりや悪口、恫喝、すべて口業です。
普段、私たちが「行為」といっているのは、この二つまででしょう。これらは自身にさまざまな結果をもたらすと、分かりやすいのではないでしょうか。
ところが仏教ではもう一つ、「意業」、心で思うことも行いであり、それも私にさまざまな結果をもたらすものなのだよ、と教えられます。
「心で何を思っていても、表面に現さなければ問題はない」
と思っている私たちは、こんなことを聞かされるとにわかには信じ難いでしょう。
これは一体、どういうことなのでしょう。
【仏教用語】<四苦八苦>⑰
「四苦八苦」の八つ目、最後は「五陰盛苦」です。
「五陰」とは肉体のこと。肉体あるがゆえの苦しみ、我々の肉体に集まる苦ということです。これは前の七つを総括されています。
一切経の中で唯一つの真実のお経といわれる『大無量寿経』には、
「田有れば田を憂え、宅あれば宅を憂う。牛馬六畜、奴婢、銭財、衣食、什物、復共に之を憂ふ」
「田を持っていれば、そのために人は苦しみ、家を持てば、それゆえに思い悩む。牛や馬などの家畜、金銭、衣食、ありとあらゆる財産の類があればあることで心配の種は尽きないのである」
とあるように、持たない者は、
「持った苦しみなぞ、あるはずがあろうか」
と思われましょうが、有ればある苦しみのあるのが、この人生の実相なのです。
人生は、実に衆苦の充満した世界であり、この真相を痛感できない者は、ちょうど熱病に冒されている時、たとえ空腹でも、一向にそれを感じないのと同様で、ひとたび発熱が治まれば、にわかに飢えを覚えるようなものです。
人生の真相を凝視し、一時の熱病が去れば
「人生は苦なり」
の釈迦の金言を痛感せざるを得ないでしょう。
かくて仏教は、これら諸苦の根元を抜き、無上の楽しみと満足を与えることを目的としているのです。
【仏教用語】<四苦八苦>⑯
苦しみを八つに分けて教えられた「四苦八苦」の七つ目、「求不得苦」を解説していました。
これは、希望の実現されない悩み苦しみです。
ある者は金を求めて得られず苦しみ、ある者は地位を求めて苦しみ、ある者は恋を、美を智を、才を求め、しかもそのいずれも得られずに苦しんでいる。
姑は嫁を自分の思うように動かそうとし、嫁は自由に所帯を切り回したいと望み、夫は妻を、妻は夫をそれぞれ思う通りに動かし、独占したいと願うが、これらの希望が一つとして満足されず苦しんでいます。
イソップ物語に、こんな話があります。
昔あるところに、中年の男が二人の女性と恋愛し、そして結婚した。
一人の女性は彼よりずっと若く、もう一人の女性は彼よりずっと年上であった。
若い妻は、夫が少しでも若く見えるように切に望んでいた。
そこで毎日夕飯のあと、中年を過ぎようとしている夫の白髪を一本一本、丹念に抜いてやった。
年取った方の妻は、夫が自分よりも若く見えることをひどくいやがり、白髪が一本でも増えることを望んでいた。
そこで毎日朝飯の後で夫の白髪にならぬ毛を一本一本、丹念に抜いてやった。
しまいにこの男は丸坊主になった、という。
お互い、思うようにならぬ人生の真相を教えて妙である。
たとえ一時的に希望が満たされても足ることを知らない底知れぬ欲望は無限に渇き、無限に求めて苦しむのです。
この大事な問題を、親鸞会で詳しく学んでいきませんか。
【仏教用語】
<四苦八苦>⑮
仏教で教えられる八つの苦しみの七つめ、「求不得苦」について、人間の五つの願望について学んでいました。
1いつも三月、花の頃
2お前十八、わしゃ二十歳
3死なぬ子三人、皆、孝行
4使って減らぬ金百万円
5死んでも命のあるように
今回はその最後、五つめです。
5死んでも命のあるように
「まだやりたい事があるので、今しばらく、長命の祈祷をお願いしたい」
八十歳の人が高徳の噂を聞いて良寛の所へやって来た。
「長命と言っても一体、何歳くらいまでお望みかな。それが分からぬと祈祷のしようがない」
「九十では十年しかない、百歳までお願いしましょうか」
「あとたった二十年。百一になれば死なねばならぬが、いいかな」
「もっと、お願いできましょうか」
「一体、何歳まで生きたいのか、言ってみなさい」
「それじゃ百五十歳までいかがでしょう」
「百五十歳でよろしいか」
「あんまり厚かましくても……」
「そんな遠慮は無用じゃ」
それでは二百歳、三百歳、五百歳と、次第に寿命をせりあげてくる可笑しさに耐えながら良寛、
「どうせお願いするついでだ。本心言ってみなされ」
と促すと、
「それじゃ、いっそのこと、死なぬ祈祷をお頼みします」。
とうとう本音を吐いたという。
上記の五願を求めて、私たちは日々あくせく働き、あちらへ、こちらへと活動しています。しかし、一時は得られたように思っても、それはいつまでも続くものではありません。
いずれ手放し、置いていかねばならないもの。とりわけ、最も求める死なぬ命は決して得られず、だれもが100パーセント死んでいかねばなりません。
死ねば後の4つも、結局は手中には残りませんから、求め得られぬ「求不得苦」からは逃れられないのです。
【仏教用語】
<四苦八苦>⑭
仏教で苦しみを八つに分けて教えられた七つめ、「求不得苦」について、人間がだれしも抱く五つの願望について学んでいました。
1いつも三月、花の頃
2お前十八、わしゃ二十歳
3死なぬ子三人、皆、孝行
4使って減らぬ金百万円
5死んでも命のあるように
今回は3つ目から。
3死なぬ子三人、皆、孝行
今でこそ子供の生存率は高くなりましたが、かつては夭逝する子がままありました。親にとってお最大の悲しみは、子を亡くすことでしょう。しかし、元気なだけで喜んでいたのは幼いころだけ。成長すれば生意気な言動も増え、反発ばかりするようになります。
親のことをよく考える、孝行な子であれば申し分ありません。
4使って減らぬ金百万円
日々を生きる私たちの悩みの多くは、経済的な問題から発せられるものではないでしょうか。サイフに不足のない生活を、だれもがしたいと願っています。
結婚して子供を持ちたいけれど、不況など経済的理由で断念する夫婦が多いことから、少子化の要因の一つとなっています。
使っても減らぬ百万円があれば、そんな時、どれだけ頼もしいことでしょう。