【仏教用語】 <四苦八苦>⑥

  • 2月 28, 2010 11:54 PM

【仏教用語】
<四苦八苦>⑥

仏教で、苦しみを八つに分けて教えられる「四苦八苦」の5番目「愛別離苦」について、今回は書きましょう。
これは、愛するものと別離する苦しみです。

寒い冬、いつまでも暖かい布団に寝ておりたいのに、起きて仕事や学校に行かねばなりません。大好きな食べ物も、食べてしまえばなくなり、楽しみにしていたテレビ番組、音楽、映画も時間が来れば終わります。記録して何度も見ても、やがて飽きる時が来ます。

若さを誇っていても、いずれ年を取る。給料をもらって一時はホッとしても、「お足」で、アッという間に懐はさびしくなる。
かわいがっていたペットが死んでしまう。大事にしていた時計が壊れる。思い出深い学び舎から卒業する。愛する伴侶や恋人、家族、友人を不慮の事故や病気で亡くす人。死に別れでなくても、誤解や行き違いで、失恋、悲恋、破局の憂き目を見ることもあります。

古くから「会者定離」「会うは別れのはじめ」とも言うように、どんな相手やものとも、いずれ別れが待っている。

 仮に、生きている間は恵まれても、死んでいく時は、大事にしてきた肉体も、苦労して身につけた技術や能力、経験も、一切を焼いていかねばならないのです。
私たちが大なり小なり、必ず出くわす種々の悲しみは、多くこの愛別離苦でしょう。

【仏教用語】<四苦八苦>⑤

  • 1月 19, 2010 12:00 AM

【仏教用語】
<四苦八苦>⑤

私たちの苦しみを八つに分けて、仏教で教えられている「四苦八苦」の4番目、「死苦」について書いています。

私たちは生まれてこのかた、死の苦しみに翻弄されながら過ごしていると言ってもいい、と前回、言いました。

老いや病も、恐ろしいと思うのは、それが潜在的に死とつながっているからでしょう。ほかにも事故や不祥事、戦争、テロや殺人など、私たちが怖れるものの根底に、必ず死の影が見え隠れしているのです。

だれもが〝人命こそが尊い〟と思っています。それが脅かされ、失われるのが死ですから、だれもが死を怖れているといえるでしょう。
先に挙げたようなテロや戦争、悲惨な事故の撲滅を誓うのも、ひいては理不尽に命が奪われることがないように、との願いからでしょう。しかし、その目先にとらわれるあまり、大事な本質を見失ってはならないでしょう。

昔、新人猟師が初のイノシシ猟に出る前、ガタガタ震えていると、見かねた先輩が一言、
「心配するな。山より大きなイノシシは出ぬ」
それを聞いた新人は、ようやく肝が据わったという。

人生の最大の問題が見極められれば、あとは何が来ようと腹を据えて挑んでいけるでしょう。さまざまな人が、各々取り組む社会問題なども大事ですが、人生最大の難事は、この死の問題の解決に違いありません。
そこでまず、死とは何か、その苦しみとはどんなものか、を問わなくてはなりません。
人生の苦しみを知ろうとするのも、つまるところ、この死の問題に目を向けるためといえるでしょう。

この大事な問題を、親鸞会で詳しく学んでいきたいと思いませんか。

【仏教用語】<四苦八苦>④

  • 12月 31, 2009 11:18 PM

【仏教用語】
<四苦八苦>④

私たちの苦しみを八つに分けて、仏教は教えています。その「四苦八苦」の4番目は「死苦」です。

文字通り「死の苦しみ」。よく「死ぬほど苦しい」と例えますが、おおよそ生きている人間が、最も恐れ、忌み嫌っているのが死ではないでしょうか。
死の苦しみ、と聞くと、ふつうは死ぬ瞬間、あるいはその周辺の苦しみだけを言うように思います。しかし実は、私たちは生まれてこのかた、死の苦しみに翻弄されながら過ごしていると言ってもいいのではないでしょうか。

例えばこれまで書いてきた老苦にしても、なぜ皆イヤがるのでしょう。体力や知力の衰えは、大変な衝撃を私たちに与えます。たいていの人は、20代も半ばを過ぎるあたりから、徐々に衰えに入っていき、それが40、50、60と年齢を重ねていくにしたがって、弱り方が激しくなっていきます。その先に死があるからです。

病苦も同様。軽い風邪やちょっとした発熱なら、だれも恐ろしいと思わないでしょう。ところが死に直結する病気となれば、たちまち顔色を変えて予防にコレ努めます。
昨秋からの新型インフルエンザの大騒動がそれを物語っているでしょう。幸い、重症化する事例は少ないとみるや、すぐに関心は薄れてしまったのも、その明証でしょう。

このような事例はほかにもありそうです。

【仏教用語】 <四苦八苦>③

  • 11月 30, 2009 11:46 PM

【仏教用語】
<四苦八苦>③

仏教で、私たちの苦しみを八つに分けて教えられた四苦八苦について解説しています。
3番目は「病苦」です。

昨今は、世をあげての健康ブーム。
「体にいい」
「脳を活性化」
などと聞けば、食品や日用品、おもちゃに至るまで、どんなものでも飛びつきます。

それほど健康を望み、病を厭う私たち。昨今の新型インフルの流行でも、
「自分もかかるのでは?」
と、だれもが気をもんだことでしょう。

感冒、歯痛、腰痛、内臓疾患、激しい痛みを伴うもの、ジワジワと治りにくいもの、と病状はさまざまでも、当事者には〝自分の疾病こそ最も苦しい〟と思うもの。自己申告だけでは甲乙つけがたいので、「病」は「やまいだれ」に「丙」と書くのだそうです。

では、なぜかくも、私たちは病気を忌み嫌うのでしょう。古来、
「病は死の便り」
といい、死の兆しとされたから。病を嫌うのは、死を遠ざけようとする心があるからでしょう。

【仏教用語】 <四苦八苦>②

  • 10月 30, 2009 11:02 PM

【仏教用語】
<四苦八苦>②

仏教で四苦八苦といわれるのは、私たちの苦しみを八つに分けて教えられたものです。

「生苦」については前回、書きましたので、今月は「老苦」から説明したいと思います。これは文字どおり「老いる」苦しみです。

私たちは一日生きたら一日分、一年生きたら一年分、年をとります。
ある時期までは、それを成長といっていますが、ピークを越えると次第に体力、気力、知力、いずれもが衰えていきます。この衰退に従って感じる苦しみが老苦でしょう。

もちろんこれには個人差がありますが、目が薄くなり、耳も聞こえなくなる。俊敏だった体の動きも鈍くなり、足が思うように回らなかったり、ちょっと捻っただけで調子を崩したり。思うようにならない肉体にイライラが募って怒りっぽくなったり、肩や腰、ひざなどに、絶えず痛みを抱えたりします。
気持ちは萎えていないつもりでも、体が思うようにならなくなる。
「こんなはずではなかった」
若いころには想像できなかった、ちょっとしたつまずき、やりきれなさ。
実はそれが、老いの最もつらいところではないでしょうか。

【仏教用語】<四苦八苦>①

  • 9月 17, 2009 3:23 PM

【仏教用語】
<四苦八苦>①

何かに苦心惨憺している様子を、よく「四苦八苦する」といいますが、四苦八苦とは元来、そういう意味ではありません。仏教から出た言葉で、この世の苦しみを八つにまとめて教えられたものです。

○生苦(しょうく)
○老苦(ろうく)
○病苦(びょうく)
○死苦(しく)

の四つを「四苦」といい、これに、

○愛別離苦(あいべつりく)
○怨憎会苦(おんぞうえく)
○求不得苦(ぐふとっく)
○五陰盛苦(ごおんじょうく)

を足して「八苦」といいます。
それぞれどんな意味か、少しずつ書いていきましょう。

はじめの「生苦」は生まれたことの苦しみ。生を受けたことが苦である、ということです。
生まれぎわの苦しみ、の意にも取れますが、誕生の時は母親こそ苦しんでも、生まれる本人が苦を意識しているかは分かりません。
仏教で苦を説くのは、その苦をハッキリ意識させ、その苦しみを抜くためですから、生苦とは、生まれたことの苦しみのことなのです。

【仏教用語】<如来>

  • 7月 6, 2009 4:18 PM

【仏教用語】
<如来>
仏様のことをさします。
仏とは、死人のことではなく、最高のさとりの名前だということは以前も述べたことがありますよね。
如来には「真如より来現した人」という意味があり、真如とは真理のこと。
ここでいう真理とは、すべての人が本当の幸福になれる真理のこと。その真理を悟って現れた方のことをを如来、仏というのです。

但し、阿弥陀如来と、釈迦如来は違う仏様なので、混同しないように注意が必要となってきます。
阿弥陀如来は釈迦如来の先生の仏さまなのです。

さて、先日からたびたび紹介している親鸞会の友人ですが、彼から南無阿弥陀仏について話を聞きました。
親鸞聖人と言えば、「南無阿弥陀仏」を連想する人、少なくないと思います。

蓮如上人の御文章によると、

“「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり”

と記されています。
南無阿弥陀仏という六文字は、たった漢字六文字だからそんなすごい働きがあると思えないだろう。だがこの六字の名号には、想像を超えた、私たちを絶対の幸福にする、広大無変なお力があるのだよという意味だそう。

南無阿弥陀仏という用語には素晴らしい意味が宿っているのですね。

でもよく「南無阿弥陀仏と称えれば極楽へいける」といわれていますが、本当でしょうか?
そのことについてはまたの機会に書きたいと思います。

【仏教用語?】

  • 6月 30, 2009 3:24 PM

【仏教用語?】
<ありがとう>
日常的に使うことの多い「ありがとう」という言葉、幼い子供に母親は大切な言葉だからと常にどこでも「ありがとう」と子供に言うようにとしつけることが多いです。
では、この「ありがとう」とはどのような意味があるのでしょうか。
「ありがとう」とは、“有り難う”と書きます。
これは私達が人間に生まれることは大変ありがたい、稀有なことだから、生まれたことを喜ばねばならないという、お釈迦様の言葉から出た言葉だそうです。
やはり「ありがとう」は仏教用語なんですね。

それがなぜ感謝の言葉に転じたかというと、欲で一杯の私たち人間は、他人ののために物をあげたり、親切をしたりすることは大変難しいこと。
それを行うことはめったにない有り難いことだからなのだとか。

些細なことにも感謝の意を表すことの出来る人は素晴らしいです。

前回お話しした親鸞会の冊子をくれた友人は、友人の私が言うのもなんですが、かなり「出来た」人間です。
和顔愛語を常に実行し、感謝の心を忘れない人で、同級生でありながら、尊敬できる人間です。

彼は人を疑うことを知らなかったがゆえに一度痛い裏切りを経験したことがあります。
精神的にも追い詰められ、母親と一緒にすがる思いで親鸞会で話を聞き、そこで自分のあるべき姿を見出すことが出来たのだとか。
彼は裏切った人間をずっと恨んでいたそうです。

しかし、世の中は因果応報
「蒔かぬ種は生えないし、刈り取らねばならぬすべてのものは自分の蒔いた種からでたものばかり」です。
たとえ記憶になかったとしても、自分の悪い行い(それは身体の行いに限らず、口で言ったことや、心で思ったことも含まれます)が悪い結果(苦しい結果・辛い結果)として返ってきたものなのです。
つい苦しいことがあると他人のせいにし、どうして自分だけが、と思いがちですが、因果の道理を知ることにより、彼は真正面から真の自分と向き合えるようになり、それにより彼は反省と向上を繰り返せるようになったのだそうです。

きっかけは大切です。
彼は親鸞会の教えを知るというきっかけによって人生のどん底から立ち直ることができました。

彼を立ち直らせるきっかけを作ってくれた親鸞会に感謝します。

【仏教用語】<慈悲><菩薩>と私の気持ち

  • 6月 22, 2009 2:36 PM

【仏教用語】
<慈悲>
仏教では慈悲について次のように教えられています。
慈・・・苦を抜く
悲・・・楽を与える

つまり子持ちの方を例えて言うならば、
病気などで苦しんでいる子供を病院へ連れて行って早く苦しみを抜いてやりたいという心は親の「慈」の心。
子供を喜ばせるために一緒に遊んでやったり、美味しいおやつを与えたいという思いを親の「悲」の心、というのです。

「悲」とはカナシイというイメージがつきものですが、仏教用語では全く違う用語としてにとらえられているようですね。

【仏教用語】
<菩薩>
正式名称を菩提薩埵というそうです。
「菩提」とは、真実の幸福
「薩埵」とは、求める人という意味があり、本当の幸せになろうと真実の仏教を求めている人はみな菩薩になるのだとか。

ということは、あなたも真実の仏教を求めれば菩薩になれるのです。

本当の幸せになろうと真実の仏教を求め、みんなが幸せな気持ちになっていけたらいいなということで、私が最近心がけていることは和顔愛語です。
和顔愛語とは、穏やかな表情や言葉、親しみやすいふるまいを行うことを言います。

私が穏やかな態度をとっていれば、周囲も嫌な気分になることはまずありません。
また、和顔愛語でいると、その人のいる環境は良くなっていくと日本各地を回っている売薬さんはおっしゃっています。
確かに常に眉間にしわを寄せている家人の環境がよいように反映していくとは思えません。
和顔愛語でいれば、それだけで周りの人も自分に穏やかに振る舞ってくれるようになるような気がしますね。

今日は何とも気分のいい日です。

こんな日は、先日親鸞会の友人からもらった「とどろき」という本をじっくりと読みたくなってきます。

地獄極楽

  • 6月 10, 2009 1:56 PM

私が幼少期に教育テレビか何かで芥川龍之介の蜘蛛の糸を見た時、ものすごく衝撃を受けた覚えがあります。
生々しい地地獄極楽の対比。
幼いだけに地獄を夢で何回も見てしまい、しばらく夜中に何度も起きたものです。

この話の中に出てくるカンダタは生前一度だけ蜘蛛を助けたことがあることを知られたお釈迦様が地獄のカンダタに極楽から一本の蜘蛛の糸を落とされます。
極楽から伸びてきた蜘蛛の糸をよじ登っていくカンダタ。その後を追って地獄の住人が上ってきます。
その時カンダタは「このままでは蜘蛛の糸が切れてしまう」と思い、糸を多くゆすって追随する者たちを血の池地獄へ落としました。
ざまあみろとカンダタが言った時、カンダタの手元から糸がプツリと切れてしまいます。

自分のことしか考えないとどうなるか・・・・考えさせられる物語です。
幼い自分にはこの物語が何を言いたかったのかが理解できなかったのですが、法話などではどんな話にも必ず分かりやすく解釈をつけてくださいます。
だから私は法話が大好きで、できるだけ話を聞かせていただくようにしています。

【仏教用語】
<自利利他>
相手を生かし、自分も生きる。
共に幸せになれるのが自利利他の仏教。

逆に相手の対場を考えず、自分のことばかりを主張することを仏教用語では<我利我利>といいます。
仏教用語の中で我利我利は、幸せになれない人だと教えられています。

これは子供を教育していく上でもとても大切な言葉ですね。
この仏教用語自身をまだ難しくて覚えることが難しいような幼少期でも、仏教用語の意味を教えてあげることはその子供の成長にとってとても大切ないことではないでしょうか。

たとえば、バスに乗っていた時、急ブレーキがかかり、子供がバスの窓枠に頭をぶつけたとき、お母さんが、子供によしよしと頭をなでてやり、大事に至らず、子供が泣きやんだ頃。
「痛かったでしょう。かわいそうに。お母さんがなでててあげるね。でも、この窓もいたかったのよ。だからお母さんと一緒に窓をなでてあげようね。」これが自利他利の教えにつながっているのです。
これ対し、「痛かったでしょう。じゃあボクに痛い思いをさせたこの窓をたたいてやりましょう」となると、我利我利につながって行ってしまうのでしょうね。