私が幼少期に教育テレビか何かで芥川龍之介の蜘蛛の糸を見た時、ものすごく衝撃を受けた覚えがあります。
生々しい地地獄極楽の対比。
幼いだけに地獄を夢で何回も見てしまい、しばらく夜中に何度も起きたものです。
この話の中に出てくるカンダタは生前一度だけ蜘蛛を助けたことがあることを知られたお釈迦様が地獄のカンダタに極楽から一本の蜘蛛の糸を落とされます。
極楽から伸びてきた蜘蛛の糸をよじ登っていくカンダタ。その後を追って地獄の住人が上ってきます。
その時カンダタは「このままでは蜘蛛の糸が切れてしまう」と思い、糸を多くゆすって追随する者たちを血の池地獄へ落としました。
ざまあみろとカンダタが言った時、カンダタの手元から糸がプツリと切れてしまいます。
自分のことしか考えないとどうなるか・・・・考えさせられる物語です。
幼い自分にはこの物語が何を言いたかったのかが理解できなかったのですが、法話などではどんな話にも必ず分かりやすく解釈をつけてくださいます。
だから私は法話が大好きで、できるだけ話を聞かせていただくようにしています。
【仏教用語】
<自利利他>
相手を生かし、自分も生きる。
共に幸せになれるのが自利利他の仏教。
逆に相手の対場を考えず、自分のことばかりを主張することを仏教用語では<我利我利>といいます。
仏教用語の中で我利我利は、幸せになれない人だと教えられています。
これは子供を教育していく上でもとても大切な言葉ですね。
この仏教用語自身をまだ難しくて覚えることが難しいような幼少期でも、仏教用語の意味を教えてあげることはその子供の成長にとってとても大切ないことではないでしょうか。
たとえば、バスに乗っていた時、急ブレーキがかかり、子供がバスの窓枠に頭をぶつけたとき、お母さんが、子供によしよしと頭をなでてやり、大事に至らず、子供が泣きやんだ頃。
「痛かったでしょう。かわいそうに。お母さんがなでててあげるね。でも、この窓もいたかったのよ。だからお母さんと一緒に窓をなでてあげようね。」これが自利他利の教えにつながっているのです。
これ対し、「痛かったでしょう。じゃあボクに痛い思いをさせたこの窓をたたいてやりましょう」となると、我利我利につながって行ってしまうのでしょうね。
【仏教用語】
<祇園精舎>
最近は教育テレビでもよく使われているので、子供でもよく知っている言葉です。
平家物語の第一巻に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
という有名な言葉がありますが、祇園精舎とは実はお釈迦さまのお話を聞く寺の名前なんです。
簡単に訳すと、祇園精舎にある鐘の音は『全ての物は例外なく常がなく続かない』と感じさせるように鳴り響いています、ということです。
幼稚向けの番組で何とも難しい言葉を教えていますよね。
でも、この平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の言葉こそ何かを感じさせる響きを持っているので採用されているのかもしれません。
【仏教用語】
<彼岸>
「暑さ寒さも彼岸まで」とよく言います。
彼岸とは、暦の上では、太陽が真東から出て、真西に沈む春分の日、秋分の日のことを言います。
ここで追加マメ知識。
彼岸は太陽が真西にしずみますが、“西方浄土”といわれるように、阿弥陀仏の極楽浄土は真西にあると説かれています。
西方浄土を“彼の岸”といい、、太陽が真西に沈む日を“彼岸”といわれるのだそうです。
【仏教用語】
<往生>
往生とは、阿弥陀仏に救われた体験を表す言葉、をいいます。
ところが、この往生という仏教用語のことを「死ぬ」、「困る」、といった意味によく誤用されてしまいがちですので、注意してください。
「往生」には二通りの読み方があります。
1「生かされて往く」
阿弥陀仏の本願に救われた人は、この世から、絶対の幸福に生かされて往く。何ものも苦しみや障害とならぬ幸福に救われる体験を「往生」という。「困る」という意味は微塵もありません。
2「往って生まれる」
この世で絶対の幸福に救われた人は、一息切れたら、必ず、浄土へ往って仏に生まれること。「極楽往生」といわれる通りです。
【仏教用語】
<煩悩>
煩悩とは私たちを煩わせ、悩ませるもので、我々人間には煩悩が百八あると教えています。
除夜の鐘を百八つくのはここから来ているのです
代表的なものが欲、怒り、愚痴になります。
簡単に説明すると、欲は、欲しい欲しいという心
怒りとは、欲が妨げられてカーッと腹立つ心。
愚痴は、うらみねたみの心です。
ちなみに除夜の鐘の数は煩悩の数の他に、「四苦八苦を取り払う」という言葉の由来から4×9+8×9=108
にちなんでいるという説などもあるそうです。
でもこれは単なる言葉遊びでしょう。
なんといっても仏教はインドで説かれたのですから、四苦八苦がインドの言葉でも「シクハック」と
読んだり、4を「シ」9を「ク」と発音はしないでしょうからね。
<愚痴>
世間ではよく、「愚痴をこぼす」「愚痴っぽい」「愚痴る」などといわれる。
「愚痴をこぼす」は、いっても甲斐のないことをいって嘆いたり、恨んだりすることであり、それをいつもくり返す人が愚痴っぽい人です。
愚も馬鹿なら、痴も知恵が病気にかかっている字だから、同じくおろかで、ものの道理に暗いこと。
因果の道理が分からないこころをいいます。
私もよく愚痴を言う人間です。
愚痴とは愚かな行為なんだと改めて思い知らされましたね。
先述の他力といい、愚痴と言い、仏教用語は難しいようで、私たちと大変身近な所に存在しているものなのだと仏教用語について改めて惹かれるものを感じています。
【仏教用語】
<浄土>
浄土とは、本師本仏の阿弥陀仏のまします浄らかな世界をいい極楽とも言われます。
【仏教用語】
<仏>
よく刑事ドラマなどで遺体に向かって『仏さん』と呼んでいますが、仏教用語としてこの使い方は間違っているんです。
仏とは、死人のことではなく、最高のさとりの名前です。
では何をさとるのかといえば、大宇宙の真理をさとるのです。
真理といっても、1+1=2といった数学的真理、水は高きより低きに流れるといった科学的真理などありますが、ここでいう真理とは、すべての人が本当の幸福になれる真理のことをさします。
「人生は苦なり」と言うように、科学や医学は随分進歩してきていますが、人間の苦しみや悩みは少しも減ってはいません。
昔の電話は一家に一台、外出したら不便でした。
しかし今は一人一台、携帯電話を持ち歩いています。
いつでもどこでも連絡できて便利になったと思う反面、携帯が新たな犯罪やいじめの温床にもなって規制や対策が迫られていのも現実です。
子供が事件に巻き込まれはしないかと心配な親も多いでしょう。
「有れば有ることで苦しみ、無ければ無いことに苦しむ」
と仏教では説かれます。
金や物の有無に関係なく皆、苦しんでいるということです。
その解決の糸口さえ見つからぬまま、最もイヤな死へと向かっているのが、すべての人ではないでしょうか。
そんなすべての人が、本当の幸福になれる道をさとられた方こそが仏さまなのだそうです。