【仏教用語】 <四苦八苦>②

  • 10月 30, 2009 11:02 PM

【仏教用語】
<四苦八苦>②

仏教で四苦八苦といわれるのは、私たちの苦しみを八つに分けて教えられたものです。

「生苦」については前回、書きましたので、今月は「老苦」から説明したいと思います。これは文字どおり「老いる」苦しみです。

私たちは一日生きたら一日分、一年生きたら一年分、年をとります。
ある時期までは、それを成長といっていますが、ピークを越えると次第に体力、気力、知力、いずれもが衰えていきます。この衰退に従って感じる苦しみが老苦でしょう。

もちろんこれには個人差がありますが、目が薄くなり、耳も聞こえなくなる。俊敏だった体の動きも鈍くなり、足が思うように回らなかったり、ちょっと捻っただけで調子を崩したり。思うようにならない肉体にイライラが募って怒りっぽくなったり、肩や腰、ひざなどに、絶えず痛みを抱えたりします。
気持ちは萎えていないつもりでも、体が思うようにならなくなる。
「こんなはずではなかった」
若いころには想像できなかった、ちょっとしたつまずき、やりきれなさ。
実はそれが、老いの最もつらいところではないでしょうか。

【仏教用語】<四苦八苦>①

  • 9月 17, 2009 3:23 PM

【仏教用語】
<四苦八苦>①

何かに苦心惨憺している様子を、よく「四苦八苦する」といいますが、四苦八苦とは元来、そういう意味ではありません。仏教から出た言葉で、この世の苦しみを八つにまとめて教えられたものです。

○生苦(しょうく)
○老苦(ろうく)
○病苦(びょうく)
○死苦(しく)

の四つを「四苦」といい、これに、

○愛別離苦(あいべつりく)
○怨憎会苦(おんぞうえく)
○求不得苦(ぐふとっく)
○五陰盛苦(ごおんじょうく)

を足して「八苦」といいます。
それぞれどんな意味か、少しずつ書いていきましょう。

はじめの「生苦」は生まれたことの苦しみ。生を受けたことが苦である、ということです。
生まれぎわの苦しみ、の意にも取れますが、誕生の時は母親こそ苦しんでも、生まれる本人が苦を意識しているかは分かりません。
仏教で苦を説くのは、その苦をハッキリ意識させ、その苦しみを抜くためですから、生苦とは、生まれたことの苦しみのことなのです。

【仏教用語】<如来>

  • 7月 6, 2009 4:18 PM

【仏教用語】
<如来>
仏様のことをさします。
仏とは、死人のことではなく、最高のさとりの名前だということは以前も述べたことがありますよね。
如来には「真如より来現した人」という意味があり、真如とは真理のこと。
ここでいう真理とは、すべての人が本当の幸福になれる真理のこと。その真理を悟って現れた方のことをを如来、仏というのです。

但し、阿弥陀如来と、釈迦如来は違う仏様なので、混同しないように注意が必要となってきます。
阿弥陀如来は釈迦如来の先生の仏さまなのです。

さて、先日からたびたび紹介している親鸞会の友人ですが、彼から南無阿弥陀仏について話を聞きました。
親鸞聖人と言えば、「南無阿弥陀仏」を連想する人、少なくないと思います。

蓮如上人の御文章によると、

“「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり”

と記されています。
南無阿弥陀仏という六文字は、たった漢字六文字だからそんなすごい働きがあると思えないだろう。だがこの六字の名号には、想像を超えた、私たちを絶対の幸福にする、広大無変なお力があるのだよという意味だそう。

南無阿弥陀仏という用語には素晴らしい意味が宿っているのですね。

でもよく「南無阿弥陀仏と称えれば極楽へいける」といわれていますが、本当でしょうか?
そのことについてはまたの機会に書きたいと思います。

【仏教用語?】

  • 6月 30, 2009 3:24 PM

【仏教用語?】
<ありがとう>
日常的に使うことの多い「ありがとう」という言葉、幼い子供に母親は大切な言葉だからと常にどこでも「ありがとう」と子供に言うようにとしつけることが多いです。
では、この「ありがとう」とはどのような意味があるのでしょうか。
「ありがとう」とは、“有り難う”と書きます。
これは私達が人間に生まれることは大変ありがたい、稀有なことだから、生まれたことを喜ばねばならないという、お釈迦様の言葉から出た言葉だそうです。
やはり「ありがとう」は仏教用語なんですね。

それがなぜ感謝の言葉に転じたかというと、欲で一杯の私たち人間は、他人ののために物をあげたり、親切をしたりすることは大変難しいこと。
それを行うことはめったにない有り難いことだからなのだとか。

些細なことにも感謝の意を表すことの出来る人は素晴らしいです。

前回お話しした親鸞会の冊子をくれた友人は、友人の私が言うのもなんですが、かなり「出来た」人間です。
和顔愛語を常に実行し、感謝の心を忘れない人で、同級生でありながら、尊敬できる人間です。

彼は人を疑うことを知らなかったがゆえに一度痛い裏切りを経験したことがあります。
精神的にも追い詰められ、母親と一緒にすがる思いで親鸞会で話を聞き、そこで自分のあるべき姿を見出すことが出来たのだとか。
彼は裏切った人間をずっと恨んでいたそうです。

しかし、世の中は因果応報
「蒔かぬ種は生えないし、刈り取らねばならぬすべてのものは自分の蒔いた種からでたものばかり」です。
たとえ記憶になかったとしても、自分の悪い行い(それは身体の行いに限らず、口で言ったことや、心で思ったことも含まれます)が悪い結果(苦しい結果・辛い結果)として返ってきたものなのです。
つい苦しいことがあると他人のせいにし、どうして自分だけが、と思いがちですが、因果の道理を知ることにより、彼は真正面から真の自分と向き合えるようになり、それにより彼は反省と向上を繰り返せるようになったのだそうです。

きっかけは大切です。
彼は親鸞会の教えを知るというきっかけによって人生のどん底から立ち直ることができました。

彼を立ち直らせるきっかけを作ってくれた親鸞会に感謝します。

【仏教用語】<慈悲><菩薩>と私の気持ち

  • 6月 22, 2009 2:36 PM

【仏教用語】
<慈悲>
仏教では慈悲について次のように教えられています。
慈・・・苦を抜く
悲・・・楽を与える

つまり子持ちの方を例えて言うならば、
病気などで苦しんでいる子供を病院へ連れて行って早く苦しみを抜いてやりたいという心は親の「慈」の心。
子供を喜ばせるために一緒に遊んでやったり、美味しいおやつを与えたいという思いを親の「悲」の心、というのです。

「悲」とはカナシイというイメージがつきものですが、仏教用語では全く違う用語としてにとらえられているようですね。

【仏教用語】
<菩薩>
正式名称を菩提薩埵というそうです。
「菩提」とは、真実の幸福
「薩埵」とは、求める人という意味があり、本当の幸せになろうと真実の仏教を求めている人はみな菩薩になるのだとか。

ということは、あなたも真実の仏教を求めれば菩薩になれるのです。

本当の幸せになろうと真実の仏教を求め、みんなが幸せな気持ちになっていけたらいいなということで、私が最近心がけていることは和顔愛語です。
和顔愛語とは、穏やかな表情や言葉、親しみやすいふるまいを行うことを言います。

私が穏やかな態度をとっていれば、周囲も嫌な気分になることはまずありません。
また、和顔愛語でいると、その人のいる環境は良くなっていくと日本各地を回っている売薬さんはおっしゃっています。
確かに常に眉間にしわを寄せている家人の環境がよいように反映していくとは思えません。
和顔愛語でいれば、それだけで周りの人も自分に穏やかに振る舞ってくれるようになるような気がしますね。

今日は何とも気分のいい日です。

こんな日は、先日親鸞会の友人からもらった「とどろき」という本をじっくりと読みたくなってきます。

地獄極楽

  • 6月 10, 2009 1:56 PM

私が幼少期に教育テレビか何かで芥川龍之介の蜘蛛の糸を見た時、ものすごく衝撃を受けた覚えがあります。
生々しい地地獄極楽の対比。
幼いだけに地獄を夢で何回も見てしまい、しばらく夜中に何度も起きたものです。

この話の中に出てくるカンダタは生前一度だけ蜘蛛を助けたことがあることを知られたお釈迦様が地獄のカンダタに極楽から一本の蜘蛛の糸を落とされます。
極楽から伸びてきた蜘蛛の糸をよじ登っていくカンダタ。その後を追って地獄の住人が上ってきます。
その時カンダタは「このままでは蜘蛛の糸が切れてしまう」と思い、糸を多くゆすって追随する者たちを血の池地獄へ落としました。
ざまあみろとカンダタが言った時、カンダタの手元から糸がプツリと切れてしまいます。

自分のことしか考えないとどうなるか・・・・考えさせられる物語です。
幼い自分にはこの物語が何を言いたかったのかが理解できなかったのですが、法話などではどんな話にも必ず分かりやすく解釈をつけてくださいます。
だから私は法話が大好きで、できるだけ話を聞かせていただくようにしています。

【仏教用語】
<自利利他>
相手を生かし、自分も生きる。
共に幸せになれるのが自利利他の仏教。

逆に相手の対場を考えず、自分のことばかりを主張することを仏教用語では<我利我利>といいます。
仏教用語の中で我利我利は、幸せになれない人だと教えられています。

これは子供を教育していく上でもとても大切な言葉ですね。
この仏教用語自身をまだ難しくて覚えることが難しいような幼少期でも、仏教用語の意味を教えてあげることはその子供の成長にとってとても大切ないことではないでしょうか。

たとえば、バスに乗っていた時、急ブレーキがかかり、子供がバスの窓枠に頭をぶつけたとき、お母さんが、子供によしよしと頭をなでてやり、大事に至らず、子供が泣きやんだ頃。
「痛かったでしょう。かわいそうに。お母さんがなでててあげるね。でも、この窓もいたかったのよ。だからお母さんと一緒に窓をなでてあげようね。」これが自利他利の教えにつながっているのです。
これ対し、「痛かったでしょう。じゃあボクに痛い思いをさせたこの窓をたたいてやりましょう」となると、我利我利につながって行ってしまうのでしょうね。

仏教の教え

  • 5月 31, 2009 1:08 PM

私達が真に求めていることとは、いったいどのようなものでしょうか。
やがて色あせてしまう幸せ?

いいえ、違います。
どんなことがあっても崩れることのない、本当の幸せになりたいという願いです。
人間はなぜ生きるのか?
それは、本当の幸せになりたいと願って生きる「絶対の幸福」ではないでしょうか。
この変わらぬ幸福こそすべての人の求めるものであり、人生の目的なのではないでしょうか。

その教えこそ、仏教なのです。

私自身も最近知るようになったこの仏教の教え。
仏教用語を知ることによって、少しでも、仏教の教えをより詳しく知り、仏教の素晴らしさを学び、人生の目的に近づけたらいいですね。

では、本日の仏教用語の解説始めます。

【仏教用語】
<出世>
世の中にはこれを生きがいにして仕事をしている人も多いかもしれません。
しかし、仏教用語の出世とは、仏法を聞き、永遠に崩れない絶対の幸福になって迷いの世界を離れることこが出世だと仏教では教えられています。

【仏教用語】

<娑婆>
ヤクザもののドラマなどで刑期を終えて刑務所から出所してくるやくざがよく「娑婆の空気は美味い」などと言う場面がありますが、娑婆とは、インドのサバーという言葉を漢字で表したものです。
漢訳は「堪忍土=かんにんど」といい、私たちの住む世界はさまざな苦しみをこらえ忍んで生きていく世界という意味です。
その様々な苦しみがあふれる娑婆の世界を明るく楽しく乗り切る本当の幸福を仏教では教えているのです。

【仏教用語】<天上天下唯我独尊><方便><我慢>

  • 5月 13, 2009 4:25 PM

【仏教用語】
<天上天下唯我独尊>
よく「自分だけが偉い」という意味で使われていますが、それは間違った仏教用語の解釈の仕方をしていると言えるでしょう。
お釈迦様が「私ただ一人が偉いのだ」と言ったわけはなく、「我」とは「我々」のことであり、本来の『天上天下唯我独尊』の仏教用語の意味は
この大宇宙(天上天下)に我々(我)人間だけが果たせるたった一つの尊い目的(独尊)がある。
という意味になるのです。

【仏教用語】
<方便>
これもまた間違った仏教用語の解釈の仕方をしています。
世間では「ウソも方便」と言って、方便をウソの代名詞のように使っているが実はそういう意味の仏教用語ではありません。
方便とは梵語(古代インド語)でウパーヤといい、“近づく”という意味の仏教用語です。
真実の幸福に近づけるに絶対に必要なものを“方便”というのです。

【仏教用語】
<我慢>
我慢とは、一般的には“辛抱する”といった意味合いで捉えられるようですが、もともとは仏教用語から来ている言葉で、「我を通すこと」を指示します。
「這っても黒豆」
ということわざがあります。
黒い物体を黒豆だといった男子は、その黒い物体が這ってでもまだなお黒豆だと自分の意見を押し通そうとすることを皮肉って
いわれた言葉ですが、このように、自分が間違っているときづきながら自分の考えを押し通すことを“我慢というのです。

【仏教用語】<祇園精舎><彼岸><往生>

  • 4月 23, 2009 3:45 PM

【仏教用語】

<祇園精舎>
最近は教育テレビでもよく使われているので、子供でもよく知っている言葉です。

平家物語の第一巻に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
という有名な言葉がありますが、祇園精舎とは実はお釈迦さまのお話を聞く寺の名前なんです。
簡単に訳すと、祇園精舎にある鐘の音は『全ての物は例外なく常がなく続かない』と感じさせるように鳴り響いています、ということです。

幼稚向けの番組で何とも難しい言葉を教えていますよね。
でも、この平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の言葉こそ何かを感じさせる響きを持っているので採用されているのかもしれません。

【仏教用語】
<彼岸>
「暑さ寒さも彼岸まで」とよく言います。
彼岸とは、暦の上では、太陽が真東から出て、真西に沈む春分の日、秋分の日のことを言います。
ここで追加マメ知識。
彼岸は太陽が真西にしずみますが、“西方浄土”といわれるように、阿弥陀仏の極楽浄土は真西にあると説かれています。
西方浄土を“彼の岸”といい、、太陽が真西に沈む日を“彼岸”といわれるのだそうです。

【仏教用語】
<往生>
往生とは、阿弥陀仏に救われた体験を表す言葉、をいいます。
ところが、この往生という仏教用語のことを「死ぬ」、「困る」、といった意味によく誤用されてしまいがちですので、注意してください。

「往生」には二通りの読み方があります。
1「生かされて往く」
阿弥陀仏の本願に救われた人は、この世から、絶対の幸福に生かされて往く。何ものも苦しみや障害とならぬ幸福に救われる体験を「往生」という。「困る」という意味は微塵もありません。
2「往って生まれる」
この世で絶対の幸福に救われた人は、一息切れたら、必ず、浄土へ往って仏に生まれること。「極楽往生」といわれる通りです。

【仏教用語】<煩悩><愚痴>

  • 4月 17, 2009 3:25 PM

【仏教用語】
<煩悩>
煩悩とは私たちを煩わせ、悩ませるもので、我々人間には煩悩が百八あると教えています。
除夜の鐘を百八つくのはここから来ているのです
代表的なものが欲、怒り、愚痴になります。
簡単に説明すると、欲は、欲しい欲しいという心
怒りとは、欲が妨げられてカーッと腹立つ心。
愚痴は、うらみねたみの心です。

ちなみに除夜の鐘の数は煩悩の数の他に、「四苦八苦を取り払う」という言葉の由来から4×9+8×9=108
にちなんでいるという説などもあるそうです。
でもこれは単なる言葉遊びでしょう。
なんといっても仏教はインドで説かれたのですから、四苦八苦がインドの言葉でも「シクハック」と
読んだり、4を「シ」9を「ク」と発音はしないでしょうからね。

<愚痴>
世間ではよく、「愚痴をこぼす」「愚痴っぽい」「愚痴る」などといわれる。
「愚痴をこぼす」は、いっても甲斐のないことをいって嘆いたり、恨んだりすることであり、それをいつもくり返す人が愚痴っぽい人です。
愚も馬鹿なら、痴も知恵が病気にかかっている字だから、同じくおろかで、ものの道理に暗いこと。
因果の道理が分からないこころをいいます。

私もよく愚痴を言う人間です。
愚痴とは愚かな行為なんだと改めて思い知らされましたね。

先述の他力といい、愚痴と言い、仏教用語は難しいようで、私たちと大変身近な所に存在しているものなのだと仏教用語について改めて惹かれるものを感じています。